鹿島ノ森の歴史

鹿島ノ森の歴史

明治22~23年、日本建設史有数の突貫工事「碓氷峠アプト式の布設工事」が1年9ヶ月に渡り行われていた。
工事責任者は技官・本間英一郎氏。
その工事の大半を請け負ったのが鹿島組(現鹿島建設)の二代目・鹿島岩蔵である。

岩蔵は、工事の本拠を峠の上・軽井沢においており、清涼な気候がすっかり気に入った彼は、本間氏のすすめもあり、軽井沢精進場の長野県営種育場の跡地15万坪を購入する。
現万平ホテルの創業者佐藤万平氏と共に、この地に日本人用の貸別荘6戸を建てた。自らも軽井沢に日本人3人目の別荘保有者となる。

北原白秋のあまりに有名な抒情詩「落葉松」。
この詩が読まれたのはここ軽井沢。
江戸時代の浅間山大噴火により、草木のない湿原であった軽井沢に、当時多くの植樹がなされた。岩蔵も落葉松を道路沿いに植えたが、いつしか並木道グローブと呼ばれ、軽井沢の名所となる。
この美しい森は大正時代には別荘地として分譲され、いつの日か鹿島ノ森と呼ばれるようになった。

大正8年、華族・実業者ら別荘族の気運が高まり、鹿島ノ森の別荘地に隣接し、トム・ニコル設計による日本で7番目のゴルフ場が誕生する。
大正12年の摂政宮、のちの昭和天皇のプレー、昭和23年米軍接収解除、昭和30年にホール数拡大と年輪を重ね、コース改良が加えられ、今でも日本有数の名門コースとして名高い。

旧軽井沢ゴルフクラブの前面の場所に、昭和初期、東京新橋の老舗料理‘花月’や銀座の高級理髪‘米倉’等が夏季出張店を出していた。
昭和31年、その跡地にゴルフ場の宿泊施設としてのロッヂが開業する。そこでは財界人や政界人が集まるパーティーが開かれ、次第に社交の場へと発展をとげる。

昭和52年、ロッヂは全面改装され、ホテル鹿島ノ森として生まれ変わる。ホテルの横には名門ゴルフ場、敷地内にはフェアリーランドとよばれる天使の森、また、ローンパインの小径、三笠通り、プールの小径等々ロマンチックな散歩道。
昔ながらの軽井沢が鹿島ノ森には今日も生き続けている。

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